Thursday, May 07, 2009
オージーイングリッシュ
僕の場合、英語を話していると「ねぇ、あなたオーストラリアにいたでしょ?」とよく聞かれる。僕の英語はとにもかくにもオージーイングリッシュのようだ。この前もアメリカ人に言われたので「どこらへんでそう思った?」と聞いてみたのだが、「もう全部よ、全部!っていうか、もうAustraliaっていう単語の発音からすでにあなたオージーイングリッシュよ」と言われた。特にどの単語を使うから、というわけでもどの単語の発音がという部分的なものではないらしい。別に僕はオージーイングリッシュを話そうと意識しているわけではないし、正直どこのどのへんがオージーイングリッシュかというのを詳細に指摘できるわけでもない。
それについて僕がどう思うか、というとこれはもう嬉しいの一言である。オーストラリアの英語というと英語の中では決して都会派のものではないし、方言みたいなものだ。英語の中ではかっこいいという部類のものではないとは思うが、僕は自分の英語がオージーイングリッシュだと言われることがこのうえなく嬉しい。
なぜか。オーストラリアが好きだというのもひとつの理由だけれど、それよりも自分の英語に関することで嬉しく思うほうが大きい。言語というのは、関西弁だってそうだけれど、その地域に住むと自然にうつってくるものである。ただ、その地域に溶け込もうとしなければ、もちろんうつらない。東京でも関西弁で通しつづける人もいるし、東京の人でも関西に行って関西弁になる人もいるし、ならない人もいる。
留学生でも同じで、せっかく外国に行っても同じ国からきた同士でいつも一緒にいて、溶け込もうと努力をしない人もいる。
僕は英語をモノにしようと思って留学したし、情けない思いやみっともない思いをしながらも必死で溶け込もうと努力をしたつもりである。もちろん、もっともっとやれたと思う点もあるけれど、自分の中では概ね満足していることも多い。そして、その自分が頑張ったことを証明してくれるのがこの自分のオージーイングリッシュだと僕は思っている。
そんなことが理由で、自分の英語がオージーイングリッシュと言われるたびに嬉しく感じる僕である。
それについて僕がどう思うか、というとこれはもう嬉しいの一言である。オーストラリアの英語というと英語の中では決して都会派のものではないし、方言みたいなものだ。英語の中ではかっこいいという部類のものではないとは思うが、僕は自分の英語がオージーイングリッシュだと言われることがこのうえなく嬉しい。
なぜか。オーストラリアが好きだというのもひとつの理由だけれど、それよりも自分の英語に関することで嬉しく思うほうが大きい。言語というのは、関西弁だってそうだけれど、その地域に住むと自然にうつってくるものである。ただ、その地域に溶け込もうとしなければ、もちろんうつらない。東京でも関西弁で通しつづける人もいるし、東京の人でも関西に行って関西弁になる人もいるし、ならない人もいる。
留学生でも同じで、せっかく外国に行っても同じ国からきた同士でいつも一緒にいて、溶け込もうと努力をしない人もいる。
僕は英語をモノにしようと思って留学したし、情けない思いやみっともない思いをしながらも必死で溶け込もうと努力をしたつもりである。もちろん、もっともっとやれたと思う点もあるけれど、自分の中では概ね満足していることも多い。そして、その自分が頑張ったことを証明してくれるのがこの自分のオージーイングリッシュだと僕は思っている。
そんなことが理由で、自分の英語がオージーイングリッシュと言われるたびに嬉しく感じる僕である。
Labels: MASAKI
Tuesday, May 05, 2009
最近、感じたこと
最近、通訳やら翻訳やらという仕事をひょんなことから頼まれてやってみたのだが、なかなか勉強になることがあった。
通訳というのは難しいものである。直訳をしても全然言わんとしていることが伝わらない事も多いし、その人の言っていることを変えすぎる訳にもいかない。そもそも日本語にはあって英語にはない表現だってたくさんある。例えば、授賞式のようなものがあって、そこで「プレゼントです、お受け取りください」という言葉があったのだが、これを「This is a present. Please receive it」ではまったくおかしく、「Please receive it」というよりは「I hope you will like it」のほうが英語では自然なのである。日本語でだらだらと長い文も英語にしてみると相当に短くなるということもあった。このような直訳の限界、弊害というものを改めて感じた。
もう1つは、自分自身の英語についてである。わりと難しい講義の通訳だったのだが、最初のうちはなかなか学問的でぴたっとくる表現が浮かばなかったりした。後から、あれって何て言えばよかったかな、と思うと出てくるのだが、そのときには浮かんでこない。やるに従って自分でもしっくりくる表現で通訳できるようになった。これはいったいなんなのだろう、と思っていて1つの考えにたどり着いた。僕は、簡単な単語や語彙を使うことが癖になっているのかもしれない。例えば、教えている授業でも初心者の方というのは多いわけで、その場合には難解な語彙を使うよりもまずはこれを覚えてほしいというものをその方のレベルに応じて使っている。そうすると難解な語彙というものを使う回数は減っていき、どんどんと引き出しの奥のほうに沈んでいく。もちろん引き出しの中には入っているのだが、これを出してやる機会を適宜作らないとこのような語彙はどんどんとぱっと出てこなくなっていき、しまいには忘れてしまうのかもしれない。
これは僕のケースであるが、もちろん生徒の方にも当てはまることである。せっかく覚えた新しい語彙や表現も使わなければ忘れていく。しかし、その語彙や表現のなかには普通の生活ではなかなか出てこないものだってあるわけである。これを補うためには、作文等の宿題でそういったものを使う問題を出してあげることが非常に重要な意味を持つ。また、英作文をする際にも「宿題だからやればいいんでしょ」という感じではなく「この日本語に対応するもっともふさわしい英語の表現はなんだろうか」と内容にこだわって英作文をすることが大事ではないかと思う。そう考えるとやはり日本の学校教育では莫大な英単語を覚えさせてはいるが使う機会が極端少ないわけで、みんなが単語を忘れていくのも無理はないのかもしれない。
単語、表現の定着には覚える労力よりも見直す労力、そしてそれを何回も使っていくこと、こちらのほうが大事である。そんなことを改めて感じた。
通訳というのは難しいものである。直訳をしても全然言わんとしていることが伝わらない事も多いし、その人の言っていることを変えすぎる訳にもいかない。そもそも日本語にはあって英語にはない表現だってたくさんある。例えば、授賞式のようなものがあって、そこで「プレゼントです、お受け取りください」という言葉があったのだが、これを「This is a present. Please receive it」ではまったくおかしく、「Please receive it」というよりは「I hope you will like it」のほうが英語では自然なのである。日本語でだらだらと長い文も英語にしてみると相当に短くなるということもあった。このような直訳の限界、弊害というものを改めて感じた。
もう1つは、自分自身の英語についてである。わりと難しい講義の通訳だったのだが、最初のうちはなかなか学問的でぴたっとくる表現が浮かばなかったりした。後から、あれって何て言えばよかったかな、と思うと出てくるのだが、そのときには浮かんでこない。やるに従って自分でもしっくりくる表現で通訳できるようになった。これはいったいなんなのだろう、と思っていて1つの考えにたどり着いた。僕は、簡単な単語や語彙を使うことが癖になっているのかもしれない。例えば、教えている授業でも初心者の方というのは多いわけで、その場合には難解な語彙を使うよりもまずはこれを覚えてほしいというものをその方のレベルに応じて使っている。そうすると難解な語彙というものを使う回数は減っていき、どんどんと引き出しの奥のほうに沈んでいく。もちろん引き出しの中には入っているのだが、これを出してやる機会を適宜作らないとこのような語彙はどんどんとぱっと出てこなくなっていき、しまいには忘れてしまうのかもしれない。
これは僕のケースであるが、もちろん生徒の方にも当てはまることである。せっかく覚えた新しい語彙や表現も使わなければ忘れていく。しかし、その語彙や表現のなかには普通の生活ではなかなか出てこないものだってあるわけである。これを補うためには、作文等の宿題でそういったものを使う問題を出してあげることが非常に重要な意味を持つ。また、英作文をする際にも「宿題だからやればいいんでしょ」という感じではなく「この日本語に対応するもっともふさわしい英語の表現はなんだろうか」と内容にこだわって英作文をすることが大事ではないかと思う。そう考えるとやはり日本の学校教育では莫大な英単語を覚えさせてはいるが使う機会が極端少ないわけで、みんなが単語を忘れていくのも無理はないのかもしれない。
単語、表現の定着には覚える労力よりも見直す労力、そしてそれを何回も使っていくこと、こちらのほうが大事である。そんなことを改めて感じた。
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