大田区蒲田にある文法・語彙の強化が中心の英語学校です

学校に対して、理不尽とも思えるクレームや要求をしてくる親のことをモンスターペアレンツというそうですが、このモンスターペアレンツの実例をよく聞きます。モンスター〇〇という言葉は他にもありますので、ただ単に世の中にクレーマーが増えているという見方もできますが、モンスターペアレンツに関しては、先生の地位の低下を如実に示しているように思えてなりません。

■先生への敬意の欠如

僕が学生時代は、体罰も普通にありました。親はそれでも「先生にも考えがあるのだから」と先生を全面的に信頼している風潮がありました。最近、その先生への敬意というのが失われてきているように思います。

実際にいじめで自殺してしまった子供の事件を見ていると、結局先生とか学校なんて何もやってくれないんだな、という印象を持ってしまいます。自分の子供は自分で守るしかない、と。そうすると先生や学校に任せておけない、と思い、自分の要求を押し通す親も出てきてしまうのだろうと思います。先生に任せておけば大丈夫という気持ちにはなれなくなってしまうのも無理はありません。

■責任は現場の先生とは言えない

考えてみれば、勉強の面でもそうなのだと思います。中学生、高校生ともなれば塾に通うようになり、学校の授業をあからさまに軽視する子供も出てきます。かくいう僕も学生時代は、よく寝ていましたし、この授業面白いから聞いておこうという授業は僕の高校にはほとんどありませんでした。予備校の先生と比べれば、残念ながら教え方は雲泥の差がありました。

だからと言って、それを現場の先生のせいだと言う気はありません。考えてみれば、授業の準備をする時間もろくに取れないほど雑務があったり、教科書がよく変わるということも理由の1つでしょう。英語の教科書を見ても、これはどのような意図でこの順番になっているのか、と思うような構成になっています。教科書に関しては学校と業者の癒着や既得権益に悪影響を受けているようなふしもあります。本当に一番いい教科書が採用されているのだろうか、と。

■受験の弊害

一発勝負で内申点がまったく加味されない一般受験のシステムも原因の1つだと思います。予備校は受験を突破するための教科書になっていますが、学校の教科書はそうではありません。

例えば、僕はオーストラリアで大学に行く際に、year12という、日本でいうところの高校3年生課程を受けねばならず、現地のカレッジに1年通ったことがあります。オーストラリアの大学には入学試験がなく、一年を通した成績が数値化され、その数値によって、大学へ入学することができます。そのために、授業は集中して聞いていましたし、先生に居残りで質問をすることもあり、学校の授業への熱意は日本の高校時代とはまったく違うものだったと思います。

生徒に熱意があれば、先生もやる気が出ますし、熱意がない生徒に対しては、打つ手がないというのも理解できます。しかも、決められた教科書をあてがわれ、授業に自分のオリジナリティを出すのも難しい日本の先生は大変でしょう。

■やるべきこと

ただ、学校の授業に意味がなくて、塾の授業で十分だというのならば、学校の授業はまったく無駄になってしまいます。これこそ税金の無駄遣いと言えないでしょうか。受験一発勝負ではなく、学校での成績も加味されるようにしたり、先生にもっと授業に関する裁量を与える、効率化して雑務を減らしてあげて、授業を準備する時間をあげる、等いろいろとやれることはあるように思います。

英語を話せるようになるために、英語をもっと低学年からやらせる方針らしいですが、いや、そういうことじゃないよ、と僕は思います。教育改革待ったなし、なるほどと思える政策を打ち出してくる政治家が出てくることを切に願います。

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